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SINCE1981 世界初のヒップホップ・ダンススクール

ファンキージャム・ストーリーfunkyjam story

第8話

○○○○○○○○イメージ

ファンキージャム・ブレーカーズの終焉

ファンキージャムが知られてから生徒が増えたのですから、当然、レッスンの回数が少ない生徒が多いのです。中には1〜2カ月でビデオやショーに出ていた人もいます。得意な型だけ生かした人海戦術でショーをした時もあります。
レッスンの方法は確立してましたので、早く出来るようになる事はわかっていましたが、全ては個人の努力です。見えない所で必死に練習していたと思います。
アッと言う間にやってしまうなんて事もありました。ファンキージャム第1号Bガールのヒロミちゃんは、練習でバックスピンがメインだった頃にたった一度の練習で、その場でバックスピンをやった兵です。スピンの完成度は高いのですが、練習嫌い?なので、その後、後方支援に回りました。
その後キョンちゃんが加入しましたが女性にブレイキングは大変と思い、以降は女性のブレイキングは止めました。男性と比べるとスピンのスピードが違うので差がありすぎてしまいます。見栄えがしないのとブレイキングはスピンする箇所に負担がかかり、コブになったりするなど身体の苦痛もあります。
最近は女性の挑戦者が多いのですが、身体が女性らしくなるまでの期間かと思っています。技ができる事の満足感はありますが、ダンスの一つの型でしかないのですから無理しないように、成長すると女性らしいダンスの型にするのが良いでしょう。



ビデオ制作時                        ビクターのイベントで

ダンスショーはレッスンの成果がでてきていましたので、誰でも出来るような状態でした。今の人たちから見ると簡単な型でしょうが、ブレイキングは1年位の数名を除き2カ月〜半年位のレッスンです。やっと型ができている位ですが頑張ってやっていました。スクール以外でも練習をしていたと思います。
その後のブレイクダンスの流行は物凄い勢いで終息します。遅く流行ったのだからしばらく続いてほしいのですが、日本は定説通りに遅く流行り海外と同じに終わる。毎日数十名いた生徒は数名になりました。
ファンキージャムはプロダクションではないのでイベントの収入はわずかです。イベント収入はショーの経費に当てていたので、生徒がいなくなるとスクール経営もできない状態になりました。
ブレイクダンスの流行でソウルダンスの生徒が極端に減りましたから、ダブルパンチを受けたような感じです。もう先は見えていましたので、閉校の1カ月先のショーの予定はお断りしました。ショーはタカシに続けてもらうことも考えましたが、DJにラップ、ダンサー数名を維持するのは相当仕事がないとできません。仕事依頼が5名なら5万円、10名なら10万円などの金額でしたので、機材や打合せなど普通にやれば赤字です。ショーの参加者は誰でも交通費や食事代になる位は支払っていましたのでショーをすることは無料奉仕になっていました。生徒が増えればやっていけると信じていましたが、生徒を含め多くの子供達はお金のかからないストリートへ行ってしまったのです。
私はロックステディクルーが高額な出演料で露出が減っていたのを知りましたし、日本人のダンスを見るレベルの低さも知っていました。出演料などを高額にすると、メディアは適当なブレイクダンスとは言えないことでやってしまうと思ってました。それがわかっていたので目一杯やっていたのです。
本物を見ないとブレイクダンスがわからないからです。しかし当初からダンススクールの経営は困難な状態でしたからスクールは休眠となりました。

ファンキージャム・ブレーカーズの詳細は FunkyJam.net をご覧ください。



次はニュージャック編です。Amblap.jp



バナースペース

ファンキージャム

ファンキージャムは1980年に私が考案した造語。
1981年にダンススクールを設立
1987年にダンススクール以外にも活動を広げダンス・ミュージック・アソシエイションとして出版やイベントを企画。

代表 浅岡幸三

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