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SINCE1981 世界初のヒップホップ・ダンススクール

ファンキージャム・ストーリーfunkyjam story

第2話

ウィナース

少し脇道にそれたのでダンススクールの事を話しましょう。
1980年にダンススクールをやりたいと思ってからは、ファンキージャムの名称も決め、物凄い勢いで準備して1981年には始める事となる。
自作のパーテーションとDJブースの総面積20坪の小さなスタジオだった。時間と空間を自由に使いたかったので貸しスタジオにしなかった。
それにダンスミュージックにはこだわっていたのでレコードにお金がかかっても我慢の日々でした。音楽あってのダンスだからこだわります。今はネットやCDショップなどで自由に聞けるので、曲を知る事は難しくないと思います。しかし昔はレコード一枚買うのでも大きな決断を必要としました。日本のレコード会社が発売していた曲は一般向きの音楽ばかり。洋楽は海外で大ヒットしたものでも厳選して発売する。それも数年遅れは当たり前の時代でした。
そこで私やディスコのDJなどは洋盤専門店でレコードあさりとなるのです。レコード店も海外に事務所を持ち新版が出ると数枚購入しチェックするのです。ヒットする可能性のある曲にアンテナを張っていたのです。そんなレコード店の一つがブラックミュージックの多いウィナースでした。
新宿、六本木に店舗があり、すぐに常連となりました。私は沢山購入していましたので、特別に聞いてから購入することができましたので無駄なく入手できました。もっとも選曲は自己判断です。あの時の六本木の店長には感謝しています。そう言えば当時、宇崎竜童氏も良く来ていました。今で言うオタクのお店ですか?
ブレイク・ダンスが流行り始めてからはDJ用の12インチシングルが増えました。ラッパーやDJの個人制作レコードが増えたからです。アルバムより12インチシングルの購入が増えお金の工面が大変でした。しかし聞いてから購入していたので失敗は少なかったのです。DeffJamは初版の12インチから購入していましたし、レッスンで使用した曲が後から流行った事も多々ありました。
今は簡単に安価で入手できるのだから天国ですね。


○○○○○○○○イメージ

   ハービーハンコックとDST


練習中のファンキージャム初代DJモンチ田中
モンチの話は次回。



バナースペース

ファンキージャム

ファンキージャムは1980年に私が考案した造語。
1981年にダンススクールを設立
1987年にダンススクール以外にも活動を広げダンス・ミュージック・アソシエイションとして出版やイベントを企画。

代表 浅岡幸三

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