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SINCE1981 世界初のヒップホップ・ダンススクール

ファンキージャム・ストーリーfunkyjam story

第4話

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インストラクター

ダンススクールのインストラクターを紹介しましょう。
当初はもちろん私一人でした。しかし見学に来ても日本人が教えてると言うだけで避ける人も多かったのです。そこでダンス友達だったマックに手伝ってもらう事にしたのです。イケメンですし私とほとんど同じダンスを踊っていたからです。
その当時、男どうしで踊るのは恥ずかしかったのですが、良く二人で踊りました。流行の踊りの型をお互いに確認する為でもあり練習でもあったのです。1983年のブレイクダンスが流行る前までインストラクターをしてました。
そしてもう一人がアゴヒロシです。当時、六本木でポップロックが上手なので知られてました。
その頃はディスコブームでしたが教える環境は皆無に近く、多くの人はダンススクールの存在を知らなかったのです。そこで毎日のようにチラシをまきにいきました。レッスン前には近隣駅前で、レッスン後は六本木で、高価でしたが駅の掲示版にポスターの掲示もしました。
その効果かはわかりませんが生徒はすこしづつ増えていきました。スクールでは流行りのダンスの他に希望者にはポップロックを教えていましたが、生徒は少なくレベルも低いのでアゴヒロシの出番はなかったのです。しかしある程度のポップロックのノウハウはできていましたし誰でも簡単にできる方法も研究していました。
ポップロックの歴史は古く、私が最初に見たのは1969年だったと思います。それも札幌のディスコに遊びにきていた女性でした。アメリカンブラックの友達に教えてもらったダンスで、ポップコーンダンスをロックして踊っていたのです。
その後多くのパターンが生まれポップロックとして踊られました。それが進化してエレクトリックブギになったのです。米国の西海岸ではポップロックでしたが、NYではブレイクダンスの影響で、子供達がエレクトリックブギに進化させたのです。
特に1970年後期〜1980年前期には良く踊られていて、日本人にも上手な人がいました。
ディスコで踊っていても照明でわからないのと、その頃はマイケルもやっていないので一般には知られていません。ショーなどの演出効果がない所では何をしているかわからないのです。むしろ今頃踊られる事が不思議な位です。


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ダンスに変化が

その頃、流行の音楽はニューヨーク・サウンドと言われる軽いソウルミュージックでした。当然ダンスも軽く感じる踊り型が多かったのです。数年後にブレイクダンスが流行るのですが、日本ではポップロックしか流行の兆しはなかったのです。
音楽にエレクトロやテクノなど多くが生まれていたのは、その頃アメリカではブレイクダンスやハウスの影響があったからと思います。でもその時は気付かなかったのです。男女で踊るのが普通だったダンスですが、一人や仲間で踊る人達が増えてきたことでわかりました。それはダンスが変わり始めるきっかけだったのです。その後ラップ歌手が多く踊るラッパーダンスやハウスダンスそしてニュージャックへと進化していくのです。


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ポスター

六本木駅に掲示したポスター。
ニューヨーク・ダンススクールにしているのはソウルダンスでは隣国のダンスと間違われるし、ニューダンスでは一般の人には何のダンスかわからないため。幾つかのダンスの型を紹介している。


バナースペース

ファンキージャム

ファンキージャムは1980年に私が考案した造語。
1981年にダンススクールを設立
1987年にダンススクール以外にも活動を広げダンス・ミュージック・アソシエイションとして出版やイベントを企画。

代表 浅岡幸三

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