本文へスキップ

SINCE1981 世界初のヒップホップ・ダンススクール

ファンキージャム・ストーリーfunkyjam story

第7話

○○○○○○○○イメージ

 ファンキージャム・ブレーカーズの活動

ファンキージャムのショーは何処でも好評、始まると多くの人が集まり効果抜群でした。
メンバーの増員を考えたのはフジテレビ主催・スポーツフェアのミズノスポーツのブースで期間内の通し出演が決まったからでした。人数とやり方に制限がなかったので、赤字覚悟で全てをやろうと考えていました。ダンスメンバーは毎回8〜10名、DJのモンチ田中、ラップのロバート、ソウル・エアロビクスのメンバーまで動員しましたので、ショーを見る為に来場した観客も多くいました。
そのイベントがきっかけで多くの仕事が生まれました。
今までの経験で善し悪しは別に映画の影響は強いと感じてましたから、ヘラルド映画の「ブレイクダンス」は協力したいと思ってました。映画と出演者の多くが西海岸だったので違和感はありましたが、ブレイクダンスに関する事は全てやりたいと思ってましたので、急いで企画や宣伝を開始しました。この映画でナイキ製品が多く使用されていましたので、当時、日商岩井の代理店だったナイキジャパンへ交渉へ行きました。結果、衣装の提供のみでしたが、ショーで多くの衣装を必要としましたので助かりました。その後映画「ブレイクダンス2」の公開もあり、イベントやテレビ等のショーの回数が増え、年間で数百回のショーをする事となりました。その影響でブレイクダンスを始めた人も多いと聞きます。



ファンキージャム・ブレーカーズのメンバーは子供達でした。常時出ていた数名を除く多くが学生でしたので、テレビやイベントの出場調整が大変でした。
ショーの内容を落とさずに人選するのが難しかったのです。家庭の事情などでメンバーの入れ替わりもありました。多くはスクールの生徒でしたが、異色のダンサーもいました。彼はショーの終了間際にいきなり乱入してきたのです。フットワークからいきなりWをしたのです。ロックスタディ・クルーのクレージーレッグスの得意技で、同じ事をやる人は多いのですが、完全なWの形でやったのです。見た瞬間に決めました。もちろん本人はショーに出たくてやる気満々でしたので、その日の内にメンバー入りが決まりました。
それがタカシと並ぶ当時高校生のゴローです。原宿等のストリートでは恐れられていたと後で知りました。ボクシングもプロになったそうです。ダンスはアゴヒロシが先生だと聞き驚きました。初めから縁があったからです。
そして横田基地のブレイクキッズ、ツヨシとカーロス。まだ9歳のBボーイですが、可愛いのと生意気なのが受けて何処へ行っても人気者でした。情報の早いネット社会の今ならもっと人気が出たのではと思います。




第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 
第6話 第8話

コメント1 コメント2 コメント3